苦難はいつも姿形を変えて訪れ、濫りに我々を翻弄する。
多くの人が地虫の営みに関心を示さないように、諸悪の根元には恨み辛みもどこ吹く風だ。
鬱積する不満の出口は淡い期待か、絶望か、行き場のない狂気か。
血と涙で綴られる悲劇は絶えず何処かで繰り広げられ、終幕などありはしない。
博愛や平和は白々しく漠然としていて、善意も情愛も結局は飾られたエゴに過ぎない。
声高らかな美徳の讃歌よりも、大義名分の下で裁かれない罪に塗れ、何処までも穢れ、悦ぶ姿の方が尤もらしい。
底無しの疑念に応えられるのは、情動のもたらす力と全てを呑み込む死の節理。
生きながらにして野獣に食まれるか、理不尽に心を喰い潰されるか、下層の末路には一筋の光も無く、喜びは自我を守る為の幻想だ。
救いを求める者の「理想の楽園は死後に訪れる」と云う合言葉。
そんな世の中に対して、何を今更。
誰かに言えるもの。
誰にも言えないもの。
二度と繰り返すまいと心に誓ったもの。
どうしようもないのだと諦めたもの。
振り返れば、過去は失敗の連続だ。
私を苦しめるのは、憤りに変わる屈辱か。
或いは虚しさを誘う悲愴なのか。
濁った感情の果てには、いつも自己嫌悪が待ち構えている。
自分を逃がさないように。
自分を許さないように。
苦い味覚に似た記憶を焼き付ける。
誰が何と言おうと、これは私の損失であり、私の収穫なのだ。
考えるだけ考えて、ただただ前へ。
這ってでも独力で。
過去ブログの記事をどうするか・・・
ありがちなようで、考え過ぎかも知れない悩みである。
今のところの選択肢は3つ。
消去法により、放置は脱落。
方向性も大切だが、今はレイアウトの修正に励むのが先決か。
ちなみに、三択の板ばさみをトリレンマという。
di (2重の)+ lemma(補助定理)=dilemma(ジレンマ)
tri (3重の)+ lemma(補助定理)=trilemma(トリレンマ)
この記事のケースは、投稿する時点で二択に絞られているので、ジレンマ。
少しややこしいだろうか。
1年ほど記事を書き連ね、ようやく気が付いた(゚∀゚)
私のやりたい事(思索の具現化)に適した媒体は、ブログではなくWebページである。
勢いでレンタルサーバを契約し、構想を練っている。
個人的な結論は出ているのだが「同じような事で迷っている人の参考になれば」と思い、それぞれのメリット・デメリットについて簡単にまとめてみた。
ブログのメリット
・手軽に更新できる。
最大の恩恵と言っても過言ではない。
モブログ(モバイル機器からの投稿に対応しているブログ)も相まって、その利便性は圧倒的と言えよう。
・ソースの知識があまり要求されない。
投稿メニューにエディタ(文字装飾やリンクテキストの差し込み)機能があったり、画像投稿機能があったりと充実したものが多く、記事を書くだけなら不便はしない。
・検索エンジンに拾われやすい傾向がある。
PING(更新通知)・トラックバック(リンク通知)の送信、内部リンクによる効果かと思われる。
ブログのデメリット
・カスタマイズできる内容に制約がある。
カテゴリの挿げ替え以上のカスタマイズを求めると、HTMLやCSSの知識がほぼ必要。
ブログを選定する時点で、運営元によって異なる制約内容を把握していないとつまづく事も・・・。
テンプレートを乗り換えるだけで満足な場合はこの限りではない。
・過去記事が埋もれやすい。
記事数が増えるにつれて、過去記事は検索エンジン経由でしか読んでもらえなくなる。
カテゴリ分けに相当気を配れば、緩和はできる。
閲覧者が遡りたくなるくらい魅力的な記事を書けるようになりたいものだ・・・。
・トラックスパムが厄介。
初めてのトラックバックは出会い系orz
コメント欄を活用してくる無礼者も居るので、コメント・トラックバックは「承認後に表示する」設定を推奨する。
Webサイトのメリット
・オリジナリティを出しやすい。
これぞ自サイトの醍醐味。閲覧者に対して「我が領域へようこそ!」と思うのは、私だけではないはずだ。
・技術や理解を深める喜び。
やりたい事を見付け、実現するまでの課程が自分の肥やしになる。
一から組んだ場合は尚更である。
・コンセプトに特化したページ作りができる。
リンク集・画像一覧・更新内容など、目的に即した設計が可能。
ブログは1ページ内に色々詰め込み、煩雑になりやすい。
Webサイトのデメリット
・ブログに比べると更新が面倒。
多くの変更はソースレベルで行うので、お手軽とは言い難い。
市販のWebページ作成ツールを使えば楽になる。
・構築には知識を要求される。
ツールを使うにしてもHTMLの知識は最低限ほしいところ。
追々でも習得する覚悟が無ければ、オススメできない。
・来訪者を集めにくい。
記事をジャンル・テーマ別に総括し、運営元に紹介されるブログやSNSとは違い、開設直後のWebサイトは離れ小島のようなものである。
PING・トラックバック・RSSを駆使してもブログに見劣りする。
が・・・「単純にアクセス数が増えれば良いのか?」と言えば、そうでもない。
この話題を掘り下げると脱線するので、またの機会に(´・ω・`)
昨今のブログは高機能なため、一般的な「ネットでやりたい事」は出来るだろうし、FC2はテンプレートのデザイン性に加え、管理画面の軽さも評価できる。
しかし、こだわりや自由度を求めるなら、Movable Type 4による管理が目標となるだろう。
あと、念のため断っておくが、この記事はブログがWebサイトのどちらかを推奨するものではない。
あくまで指標のひとつである。
私はカスタマイズが大好きだ。
そして色々とやりたい事がある。
ブログでは物足りないと思った。
だからWebサイトを作る。
それだけの事なのだ。
"正しいかどうか"と言うより、むしろ自分を保つための主義主張。
「かく在りたい」は、追いつけない理想でも成長への指標として機能すれば上出来。
人に好かれる算段には感心できない。
人を好きになる試みは素敵だと思う。
いずれ掘り下げたいトピックをメモっておく。
亡くなった斉藤氏の冥福を祈ろう。
享年17歳、若者の未来が絶たれるニュースは特に痛ましい。
今回はたまたま死なせてしまったがためにクローズアップされているだけであり、かつ「大相撲協会を叩く絶好のタイミング」が事件を後押ししているに過ぎない。
明るみに出ていないだけで、同じような理由で命を落とした力士が他にも居ると考えるのが自然ではないだろうか。
相撲に限らず、体育会系特有の暴力行為は昔から往々にしてあった訳で、それは一種の「洗礼」としてまかり通っていたはずだ。
暴力は身勝手で短絡的な行為である。
社会において許されることではない。
しかし、ある程度の体罰は必要だと私は思う。
「痛い目を見ない」という保障は、人を堕落させるリスクも孕んでいるからだ。
かと言って、どこまでを教育(シロ)とし、どこからを暴力行為(クロ)とするのか・・・明確な定義は困難である。
もっとも、必要なものは線引きではなく、適切な判断と裁量なのだが。
なるべく色々な事を考えようと書き連ねて131記事・・・時折「私はこのブログで何がしたいのだろう?」と感じてしまう。
今のところ、情報・見解・知識・おすすめコンテンツなどなど“やりたいことを具現化し切れていない感”が否めない(´-ω-`)
ここだけの話・・・「更新しなければ!」と云う気持ちに押され、見切り発車的に記事を書いている時もある orz
一応のポリシーは持っているので、私的価値観に基づいた最低ラインはクリアしているつもりだ。
ただ「もう少し時間をかければ、もっと良い記事に仕上がったのではないだろうか?」とも思う。
後悔こそないのだが、割ける時間を現実的に考えると切実な悩みである。
いつかは打破したい。
もっとも人は、終わらない苦悩を無意識のうちに求めているのかもしれない。
今に始まった話ではないが、切ない性(さが)だ。
「やってくるこの毎日が人生だと知っていたら!」と云うスウェーデンの諺(ことわざ)・・・自分にはグサッと来た。
今年一番の刺さるフレーズになりそうだ。
ちなみに二番目は
「もうすぐで夏が来るよ・・・あなたなしの」
(浜崎あゆみ 『Far away』より)
('A`)
数年前までは、画面に映るだけでチャンネルを変えないと気が違えそうになるくらい嫌いだった。
歌詞の文法(それ以前にも)ツッコミどころが満載なのだが、ぶっちゃけ今は「好きな部類」だ。
言葉の共通項には不思議と連帯感が生まれるものだな、とふと物思いにふける夏の夜なのであった。
昨日の記事
先日納めた商品の不具合によるクレームがあった。受付担当の販売員は、とりあえず謝罪をし、メーカーの担当者から状況確認の電話を入れさせたところ、初期不良と発覚。
通常、初期不良時の対応は、良品との交換である。
しかし、お客様はその商品がイヤになったらしく、話し合った結果、返品となった。
他メーカーの商品を他店で買うらしい。事態が落ち着いたのち「この商品は売りたくない」とぼやく販売員。
一連を目の当たりにし、違和感を覚えた。
私は営業ではないが、何かがおかしいと思った。
の続きだが、個人的に違和感のあった点は3つだ。
1) 良品との交換による交渉の余地は“本当”になかったのか。
販売業において返品は、売り上げを逃すと云うことだ。
返金方法が振込みであれば、振込み手数料分は確実に赤字になる。
結果はどうあれ、物を売る仕事なら説得を試みるべきではないのだろうか。
必死さが足りないと思った。
2) 何故、他店で購入をされたのか。
商品に対する嫌悪や不信感のみであれば、わざわざよその店で購入をするだろうか。
「こちら側に何らかの落ち度があり、お客様に“取引をするに値しない”と判断されているのでは?」
そんな疑問が浮上してもおかしくないはずだ。
そこに反省がなければ、今後も同じことの繰り返しである。
3) 売りたくない商品を売ったのか。
1と少し似ているが・・・
許されることではないが、初期不良は事故のようなものである。
「この度は迷惑をおかけしてしまいまして、誠に申し訳ございません。ただ、本来はご満足いただける商品ですので、検品を徹底させたのち、良品と交換させていただく訳にはいかないでしょうか。」
ぐらいのフォローは、必須ではないだろうか。
その商品に自信が無いのであれば、あらかじめ無難な機種を薦めておくのも手だ。
後付けの理想論ではなく、私ならそうする。
この件に関して引きずるつもりはないし、そもそも私は人に何かを期待をしたり、求めたりはしない。
組織的に問題視されなかったため、黙認することにしたのだが、違和感をぬぐえなかったので記事にした。
「私はこう思うのだけど、あなたはどう思った?」
それだけの話である。
先日納めた商品の不具合によるクレームがあった。
受付担当の販売員は、とりあえず謝罪をし、メーカーの担当者から状況確認の電話を入れさせたところ、初期不良と発覚。
通常、初期不良時の対応は、良品との交換である。
しかし、お客様はその商品がイヤになったらしく、話し合った結果、返品となった。
他メーカーの商品を他店で買うらしい。
事態が落ち着いたのち「この商品は売りたくない」とぼやく販売員。
一連を目の当たりにし、違和感を覚えた。
私は営業ではないが、何かがおかしいと思った。
それが何なのかは明日の朝に書くつもりだ。
あなたは何かを感じただろうか。
自分にとって思わしくない状況の大半は、自身が招いたものである。
酒の席でウダウダ言う「悩みらしきもの」がそうだ。
対策を講じる気力を取り戻すために「ちょっと聞いてくれ」と言う人の話は好きだ。
素直に応援したくなるし、必要なら手を貸したいとも思う。
発散して満足する「ちょっと聞いてくれ」と言う人の話はしんどい。
「それって自業自得なんじゃないの?」を何度も言いそうになるが、気まずくなるし、何より認めたがらない。
認めたとしても実践しない。
無駄なコミュニケーションだと感じてしまう。
いい年なのに、我ながらまだまだ大人になれないorz
ところで、因果応報をシンプルに説明すると
『善い行いをしたものには善い成果があり、悪い行いをしたものには悪い成果があり、自分の行いの報いは自分が受ける』
と云う意味合いになるが、これらが当てはまらない場合もある。
天災・難病・無差別な殺戮・・・大抵はシャレにならない。
『あの子が、私が何か悪い事をしたの?』
と、嘆きながら散っていった命は因果応報なのだろうか。
もっとも、仏教徒ではない私が、用語をかいつまんで疑問に思ったところで、仕様のないことなのだ。
ただ言えるのは、あくまでこれは自分を戒める言葉であり、人の不遇を揶揄するために用いるものではない。
有象無象は受け流し、大切な者の力となり、窮地の者には手を差し伸べる。
知る、言う、までは簡単だ。
体現できる人間になりたい。
純粋で切実なものは無いと思う。
酒乱の父が母に対して罵詈雑言を放つのを見ていた頃から、よく分からないままに幸せを願ってきた。
『幸せって何だろう』
これほど考え続けたテーマは他に無い。
「動物園で憐れだと思った動物が、檻から脱走すれば幸せか?」
「テストで良い点を取って褒められれば幸せか?」
「異性に好まれる男になれば幸せか?」
「いっそ父を殺してしまえば幸せか?」
「出世して贅沢な暮らしができれば幸せか?」
「悠々自適な人生を構築するのが幸せか?」
「思い描いたことが実現すれば、それは幸せか?」
突き詰めれば衝動は萎え、巡らせれば巡らせるほど、自分の願望が分からなくなる。
「むしろ死んでしまえば幸せか?」
苦痛からは確実に開放されるが、それも違う。
「心の平穏」に強い憧れがあるものの、内心はそれさえも半信半疑だ。
ひとつ分かっていることがある。
誰かを恨んだり憎んだりする状況は、とても哀しく不幸なのだ。
頭をよぎるだけで嫌気が差す相手に、結局は縛られているのだから。
掃いて捨てる程ある歌詞の一節のように・・・幸せとは空気のようなものなのか。
それとも数ある宗教の開祖が唱えるように・・・境地の産物なのか。
ねじれて汚れてくたびれた今も、私の迷走は終わらない。
夢を持ち、追いかけるのは、素晴らしい事だ。
そして、夢がついえるのは残念な事だ(ノA`)
最も身近な願望であり、人生の究極でもある夢。
一見、美徳のようだが、意外に厄介な特性を持つ。
・・・ここでピンと来た人は、なかなかの暗黒人である。
本題は、夢の占有率だ。
夢には3通りの結果「実現・挫折・保留」が伴う。
基本的に実現は最良の結果と言えるが、挫折もまた“己を知る”上で、重要な結果であろう。
保留は状況によって意味合いが変わるため、ここでは追究しない。
さて、夢の結果の後に訪れるのは、何だろうか?
充足感か、絶望か、それとも前と変わらぬ日常か・・・これらは結果の副産物なのだが、それぞれの大きさは夢の規模、もしくは夢への執着の度合いに比例する。
大きな夢ほど、叶った時の喜び、叶わなかった時の絶望は深い。
さらに、それが唯一の夢であった場合・・・及ぼす影響は、なお顕著になり、結果に関わらず“燃え尽きる”リスクが発生する。
いわゆる「燃え尽き症候群」である。
燃え尽き症候群の大半は、休養によって改善される。
周りにそれらしき人を見かけた場合は、休ませてあげよう(゚д゚)
ところで私は、夢には「麻酔性」があり、これこそが「夢の厄介な特性である」と考えている。
人は、夢に必死になると無理をしがちである。
夢への憧れが、普段はできないような無理をも可能とするからだ。
抽象的な表現になるが・・・夢の実現を至上として、あまりに無理を続けると、後戻りができなくなるところへ行ってしまう。
期待した結果が出ているうちはまだ良いのだが、占有率の高い夢が挫折してしまった場合に待ち受けるのは、絶望の果ての「精神崩壊」か「死」だ。
頑張るのは良い事だが、当たり前なのだから、怠け者を相手にする場合を除き、わざわざ強調しても仕様がない。
「人が人らしくあるためには、時には頑張らないのも大事」
むしろ、これを広めるべきだ。
夢に毒されてはならない。
夢あっての自分ではなく、自分あってこその夢である。