1ヵ月ほど前に祖父が肺炎で亡くなった。
享年87歳である。
正直なところ、私は祖父を既に死んだ者と考えるようにしていたのだが、いざ今際の際となると割り切れないものだ。
数少ない尊敬できる身内であっただけに、残念でならない。
「お爺さん、左様なら」と言った祖母の弱々しい様子が居た堪れなかった。
真意の分からぬ親類の泣き顔に興味はなかったが、これは効いた。
伴侶との死別は、自分にも訪れるであろう人生最悪のイベントだ。
彼女はどの用にこれを受け入れ、余生を過ごすのか。
私ならどうするのか、どうなるのか、とても他人事ではない。
「故人から得たものを継承する事で、故人は遺族の中で生き続ける」ような意味の言葉を、僧侶はしたり顔で発していた。
この手のリップサービスは、感慨云々より商業の匂いがして厭だ。
気の効いた言葉を素直に受け取れない自分も厭だ。
私はご先祖様に顔向けができる生き方を志す事で、供養しようと思う。
貴方の生きた証は、私自身なのだから。
新型インフルエンザが猛威を振るいつつある。
やれ軽率だの過敏だのといった浅はかな論議が馬鹿馬鹿しい。
「どこに何人感染者が居るか」といった情報よりも
「こうすれば感染の心配がほぼなくなりますよ」
「地域の感染者数に関わらず、予防が大切ですよ」といった呼びかけに注目するべきではないだろうか。
接触感染と飛沫感染の経路、そもそも新型インフルエンザがどのように感染するかを把握している人間が何人いるだろう。
日常で警戒すべきは、くしゃみと咳とウィルスが付着している可能性のあるもの(電車の吊革や手すり、ドアノブ、使用済みのマスク等)ぐらいのものだ。
新型インフルエンザは驚異的な死の病ではないが、その感染力や突然変異による可能性を考慮すれば、軽視できる存在でもないのだ。
私は関西在住なので、感染しないように必死である。
外出時のマスクの着用や手洗いとうがい、抗ウィルスを期待してビタミンCを意識して摂取したり、抵抗力を落とさないように最低3時間は睡眠を取るぐらいの必死さだ。
私はうつりたくないし、うつしたくもない。
各々の理性的な判断を願う。
それから、マスクのぼったくり販売には気をつけよう(´・ω・`)
参考動画(YouTube)
私たちにもできる新型インフルエンザの身近な予防策
経済恐慌、内定取消、派遣切り、何がしたいのかよく分からない政策―昨今の日本に良くない風が吹いている事については説明不要だろう。
国も会社も保身に精一杯。
一握りの有志の活躍に期待したいところだが、無情な報道に心を痛める日は永らく続きそうだ。
古今東西、苦境は何の落ち度が無くても、図々しく舞い込んで来るものだ。
しかし、乗り越えるか呑まれるか・・・結局は自分次第である。
どれだけ辛くても、道理に反する理由にはならない。
どれだけ苦しくても、人道から逸れる口実にはならない。
人の真価は窮地にこそ問われる。
「どうか負けないで」
暗雲が立ち込める今日を生きる、貴方に私に。
色々あって、長い付き合いの友が最愛の人となった。
寂しいからでも安易な選択でもなく、睦まじき人として必要、と認識したからだ。
今の自分だからこそ、力になれると思った。
今の貴女だからこそ、魅力的に感じた。
ただそれだけの事をどうすれば分かって貰えるか・・・人知れず悩んでいた。
言葉を搾り出すのに著しく時間を要した。
その甲斐有ってか、何とか本懐を遂げる事ができた。
強化、修正、反証、消去。
思索の果てに訪れた分岐点。
かつて破綻した感情の因子が再生する日が来ようとは。
私を受容した英断に感謝。
今になって、ようやく少し覚えた気がする。
独りで生きるのが怖い。
言い知れぬ心細さだけがいつも鮮明で、拭い切れない不安に自身の弱さを痛感した。
人を想う気持ちを偽りこそはしなかったが、私がこれまで求めていたのは恋人などではなかったのかも知れない・・・
自分を磨く動機。
自分の居場所を確かめる磁石。
そして、自分が狂ってしまわない為の制御装置。
何よりも大切な存在は陶酔に似た錯覚で、やはり自分が一番大事だったのだ。
それでも、今まで良い恋愛をしてきたと思う。
深い深い悲しみはあっても後悔はないし、そもそも私が人に惹かれる事が、奇跡に等しいのだから。
取り巻く環境は私が伴侶を得ることを望んでいるようだが、そんな気にはなれない。
安売りも身構えもせず、自分の気持ちには正直であり続けたい。
苦難はいつも姿形を変えて訪れ、濫りに我々を翻弄する。
多くの人が地虫の営みに関心を示さないように、諸悪の根元には恨み辛みもどこ吹く風だ。
鬱積する不満の出口は淡い期待か、絶望か、行き場のない狂気か。
血と涙で綴られる悲劇は絶えず何処かで繰り広げられ、終幕などありはしない。
博愛や平和は白々しく漠然としていて、善意も情愛も結局は飾られたエゴに過ぎない。
声高らかな美徳の讃歌よりも、大義名分の下で裁かれない罪に塗れ、何処までも穢れ、悦ぶ姿の方が尤もらしい。
底無しの疑念に応えられるのは、情動のもたらす力と全てを呑み込む死の節理。
生きながらにして野獣に食まれるか、理不尽に心を喰い潰されるか、下層の末路には一筋の光も無く、喜びは自我を守る為の幻想だ。
救いを求める者の「理想の楽園は死後に訪れる」と云う合言葉。
そんな世の中に対して、何を今更。
酸素だとか栄養だとか、生物的な観点は抜きにして・・・「人との繋がり」ではないだろうか。
協調性や残虐性・・・良くも悪くも人間は、個人戦ではなく団体戦において本領を発揮するものだ。
RPG(Role Playing Game)で一躍有名になった言葉。
「役割を演じる」という意味で、"昔の役者はロール(巻物)を台本として役を演じていた"事に由来するらしい。
芝居に限らず役割を演じる機会は、人生において多々ある訳だが、余り演じる事こだわると"本当の自分って何だろう病"にかかるので、程々にしよう(´Д`)
人には立場に見合った役割なるものが与えられる。
部員、委員、教師、校長、労働者、役職者、役員、責任者、ファン、友達、恋人、妻、夫、親などなど・・・枚挙に暇がないくらいである。
ここで述べたいのは"役割との付き合い方"だ。
例えば、夫婦は恋人の延長線上にあるものではない。
夫として、妻として、それぞれの役割に伴う責任や義務、そして権利が生じるからだ。
成熟性か成長性が必須であり、何よりトラブルやら擦れ違いやらに疲れてしまっても"望んで築いた関係"である事を忘れてはならない。
可能な限り修繕を試みるべきである。
その覚悟や認識が不完全なまま結婚をすると、かなりの確率で破綻してしまう。
・・・私が良い例だO| ̄|_
「離婚は残念な結果だが、最悪では無い!」を合言葉に頑張ろう、バツイチ諸君。
ところで、社会的な役割として"労働者"を選んだ場合、仕事とプライベートというモード選択があるような話をよく聞くが、私は「望んで選んだ仕事に限っては分けない方が良い」と考えている。
何故なら日常にこそ、生産的な発見が多く、人はプロフェッショナルとの融合よって成長するからである。
「仕事と家庭(私)とどっちが大事なの!?」
そんな考えをあなたの恋人や伴侶が持っているようなら「家庭(君)の為の仕事でもある」事を、それとなく理解させてあげよう。
また、あなた自身がそう考えているようなら、その考えは身勝手で幼稚なものだと告げておこう。
労働者が生活を守る為には"社会的評価"と"組織の繁栄"が不可欠だ。
経営者に至っては、従業員の生活をも背負い込んでいる。
重度の労働中毒者を除いて、組織に尽くす選択は社会人の宿命なのだ。
不意に自分が干渉できない世界へ身を投じられるのは切ないだろうが、事の重要さを理解してあげてほしい。
その上で応援できるようになれば、あなたは今よりも相方の心強い味方になれるだろう。
人それぞれに「幸福のカタチ」があると言うが、それは過程であり、行き着くところは「心の平穏」だろう。
劇的な高揚は一過性の快楽に過ぎず、栄光はいずれ色褪せ、欲望は果て無き渇きを埋める本能でしかない。
人を幸せにするという事は、自己犠牲という概念を捨て、相手を満たし、自分をも満たす働きだ。
故に、誰かを幸せにしたい気持ちとは「共通の喜びを求める願望」で、対象が伴侶であるなら「永続性」が加えられる。
幸せは身近にして永遠のテーマ・・・そして、この普遍的な命題に、これからも幾人もが幾度となく思い悩むに違いない。
だが、それでいいと思う。
自分の事なのだから、自分で考えて、自分で答えを見付け、自分で決めるのが当たり前だ。
私と「考えるブログ」はそのきっかけでありたい。