紆余曲折を経て人間不信。
人を好きになる事に抵抗はない。
ただ・・・人を、愛すべき足手纏いを、信じる事が「難しい」と感じるようになった。
期待や信用は情熱よりももどかしさを招き、不甲斐ない者の傷を執拗に深めるばかりだ。
不安を押し殺して見る夢に、果たしてどれほどの価値があるだろうか。
願望は叶える事よりも抱き続ける事の方が・・・
私の心は今も昔も虚無と渾沌。
暗く冷たい土中のようなネガティヴ思考がよく馴染む。
苦難はいつも姿形を変えて訪れ、濫りに我々を翻弄する。
多くの人が地虫の営みに関心を示さないように、諸悪の根元には恨み辛みもどこ吹く風だ。
鬱積する不満の出口は淡い期待か、絶望か、行き場のない狂気か。
血と涙で綴られる悲劇は絶えず何処かで繰り広げられ、終幕などありはしない。
博愛や平和は白々しく漠然としていて、善意も情愛も結局は飾られたエゴに過ぎない。
声高らかな美徳の讃歌よりも、大義名分の下で裁かれない罪に塗れ、何処までも穢れ、悦ぶ姿の方が尤もらしい。
底無しの疑念に応えられるのは、情動のもたらす力と全てを呑み込む死の節理。
生きながらにして野獣に食まれるか、理不尽に心を喰い潰されるか、下層の末路には一筋の光も無く、喜びは自我を守る為の幻想だ。
救いを求める者の「理想の楽園は死後に訪れる」と云う合言葉。
そんな世の中に対して、何を今更。
楽ではなくとも充実した毎日。
見上げただけで、全てを愛せそうなくらい優しい気持ちになれる空の蒼。
大切な人の笑顔。
求めて止まないものの大半が、そこにはあった。
虚構の中にしかない都合の良い安らぎ。
実現などありえない理想世界。
それが夢だと分かった時、私は空しさのあまり、しばらく放心状態となった。
願望が夢に現れるのは珍しい話でもなさそうだが、状況によっては単純な悪夢よりも残酷な仕打ちだ。
本当は些細なことなのだ。
ただ、少々タイミングが悪かった。
時間と共に蘇る思考回路。
喜ばしいヴィジョンを嬉しく思うのが、普通の感覚なのだろうか。
私はとても喜べない。
夢に翻弄されるのは、どこかに甘えがあるからなのだろう。
自分の脆さを戒めるのみである。
純粋で切実なものは無いと思う。
酒乱の父が母に対して罵詈雑言を放つのを見ていた頃から、よく分からないままに幸せを願ってきた。
『幸せって何だろう』
これほど考え続けたテーマは他に無い。
「動物園で憐れだと思った動物が、檻から脱走すれば幸せか?」
「テストで良い点を取って褒められれば幸せか?」
「異性に好まれる男になれば幸せか?」
「いっそ父を殺してしまえば幸せか?」
「出世して贅沢な暮らしができれば幸せか?」
「悠々自適な人生を構築するのが幸せか?」
「思い描いたことが実現すれば、それは幸せか?」
突き詰めれば衝動は萎え、巡らせれば巡らせるほど、自分の願望が分からなくなる。
「むしろ死んでしまえば幸せか?」
苦痛からは確実に開放されるが、それも違う。
「心の平穏」に強い憧れがあるものの、内心はそれさえも半信半疑だ。
ひとつ分かっていることがある。
誰かを恨んだり憎んだりする状況は、とても哀しく不幸なのだ。
頭をよぎるだけで嫌気が差す相手に、結局は縛られているのだから。
掃いて捨てる程ある歌詞の一節のように・・・幸せとは空気のようなものなのか。
それとも数ある宗教の開祖が唱えるように・・・境地の産物なのか。
ねじれて汚れてくたびれた今も、私の迷走は終わらない。
人それぞれに「幸福のカタチ」があると言うが、それは過程であり、行き着くところは「心の平穏」だろう。
劇的な高揚は一過性の快楽に過ぎず、栄光はいずれ色褪せ、欲望は果て無き渇きを埋める本能でしかない。
人を幸せにするという事は、自己犠牲という概念を捨て、相手を満たし、自分をも満たす働きだ。
故に、誰かを幸せにしたい気持ちとは「共通の喜びを求める願望」で、対象が伴侶であるなら「永続性」が加えられる。
幸せは身近にして永遠のテーマ・・・そして、この普遍的な命題に、これからも幾人もが幾度となく思い悩むに違いない。
だが、それでいいと思う。
自分の事なのだから、自分で考えて、自分で答えを見付け、自分で決めるのが当たり前だ。
私と「考えるブログ」はそのきっかけでありたい。