常にどこかで誰かが死に、今、私はここで生きている。
彼は私より生を願っていたのだろうか。
それとも死を望んでいたのだろうか。
何も考えていなかったのかもしれないし、深く思い詰めていたのかもしれない。
思念は、命運の前ではあまりに非力で、如何なる想いも、力においては単純な現象に及ばない。
私は他人事ながら残酷な現実に胸を痛め、時折「後ろめたくない生き方とは何か?」と、考える。
その答えはいつも同じ・・・「懸命に生きる」という事だ。
だとするなら「懸命に生きる」とは何だろうか。
この答えは、いつも違う。
なるべくなら、
努力を怠らない。
何事にも全力を尽くす。
最善な選択を模索し続ける。
大切な者の利益になるよう努める。
自身に誇りを持つ。
存続を感謝する。
若しくはその全て、或いは他の何か。
今は、問い掛けを忘れないことが・・・思考の堂々巡りを無駄だと思わないことが。
1ヵ月ほど前に祖父が肺炎で亡くなった。
享年87歳である。
正直なところ、私は祖父を既に死んだ者と考えるようにしていたのだが、いざ今際の際となると割り切れないものだ。
数少ない尊敬できる身内であっただけに、残念でならない。
「お爺さん、左様なら」と言った祖母の弱々しい様子が居た堪れなかった。
真意の分からぬ親類の泣き顔に興味はなかったが、これは効いた。
伴侶との死別は、自分にも訪れるであろう人生最悪のイベントだ。
彼女はどの用にこれを受け入れ、余生を過ごすのか。
私ならどうするのか、どうなるのか、とても他人事ではない。
「故人から得たものを継承する事で、故人は遺族の中で生き続ける」ような意味の言葉を、僧侶はしたり顔で発していた。
この手のリップサービスは、感慨云々より商業の匂いがして厭だ。
気の効いた言葉を素直に受け取れない自分も厭だ。
私はご先祖様に顔向けができる生き方を志す事で、供養しようと思う。
貴方の生きた証は、私自身なのだから。
苦難はいつも姿形を変えて訪れ、濫りに我々を翻弄する。
多くの人が地虫の営みに関心を示さないように、諸悪の根元には恨み辛みもどこ吹く風だ。
鬱積する不満の出口は淡い期待か、絶望か、行き場のない狂気か。
血と涙で綴られる悲劇は絶えず何処かで繰り広げられ、終幕などありはしない。
博愛や平和は白々しく漠然としていて、善意も情愛も結局は飾られたエゴに過ぎない。
声高らかな美徳の讃歌よりも、大義名分の下で裁かれない罪に塗れ、何処までも穢れ、悦ぶ姿の方が尤もらしい。
底無しの疑念に応えられるのは、情動のもたらす力と全てを呑み込む死の節理。
生きながらにして野獣に食まれるか、理不尽に心を喰い潰されるか、下層の末路には一筋の光も無く、喜びは自我を守る為の幻想だ。
救いを求める者の「理想の楽園は死後に訪れる」と云う合言葉。
そんな世の中に対して、何を今更。
久し振りに目にする田舎が、垢抜けていないと嬉しいのは何故だろうか。
牧歌的な空間で経過する時間は、心なしかゆっくりとしている。
日常のしがらみを忘れ、他愛のない話に興じる日々。
置き去りにしてきた愛着との再会。
空虚な人生の中の楽しかった思い出が、此処に埋もれている。
まるで意図して切り放した自分の側面が目を覚ましたかのようで、少し戸惑った。
私は誰にも干渉されない場所で、何も考えず、素直に悲しみに暮れていたかったのだ。
故郷のお陰で自分の望みを見付け、果たす事ができた。
生産性を美徳とする毎日の中では、無意識に思わしくない出来事を、合理的な記憶へ変造しようとしてしまう。
それを「然るべき」と評す反面、どことなく違和感を拭えずにいた。
此処に来てようやくそれに気が付いたのだ。
過去の現実を反芻する現実逃避。
気が済んだら直面している現実を受け入れなければならない。
愛する人を失った事。
祖父が私を覚えていなかった事。
これはある種の死と言える。
当人は健在だが、互いの心が通う日は二度と来ない。
私の中の貴殿方は死に、貴殿方の中の私もまた死んだのだ。
この屍となった絆も含め、せめて私は記憶を刻もう。
此処と、心に。
今日はあの子の母の命日。
どんな気持ちで迎えているのか。
前に贈ったあの子の好きなイチゴの香りがする線香・・・役に立っていれば良いのだが。
この先、あの子が何を思い、どう生きていくのか・・・もはや私には関係の無い話なのだろうか。
何も分からないまま、時間だけが刻々と過ぎていく。
「この苦しみがどれ程のものか・・・味わってみてくれよ」
「まだ正気を取り戻せていないのかも・・・」
激情と不安を孕んだわだかまりが執拗に付きまとうものの、心の揺れは随分と小さくなった。
私はきっとこの試練を乗り越えるはずだ。
意味をなさないアドレス零番。
今とは違うあの子からのメール。
そして、ただ幸せを願う気持ち。
まだ、どれも手放せそうにない。
大事な人の大事な人が息を引き取ったこの日に、私は何一つ葬れなかった。
昨日、おもむろに「オーメン」や「ダミアン」でイメージ検索(google)に勤しんでいたら、やたらラブリーな「ゴールデンハムスター」のページに偶然たどり着いた。
私も昔、ゴールデンハムスター(♀)と一つ屋根の下で暮らしていた。
名前は混沌を意味する「ケイオス」だったが、呼びにくいのと「実は人前で呼ぶと恥ずかしい」事に気付いてしまい、いつの間にか愛称は「お嬢」で落ち着いた。
馴れ初めは友達の家で、他のハムスターにイジメられ、耳は痛々しく破れ、血まみれになっていたのを目の当たりにしてしまい、いたたまれなくなって引き取った。
初めは「自分が助けてやった」ような気分だったが、いつしか愛らしくマヌケな挙動が自分にとっての「癒し」であり「救い」になっていたのだ。
つぶらな瞳と前足が反則的に可愛い(´ω`)
私はシャープな体系の生き物(シャム猫・ドーベルマン・サーベルタイガー等)が好きだったから、もっさりとしたたたずまいが新鮮だった。
幼少期の体験のせいか、最後まで懐かなかったお嬢。
ほお袋に餌を詰め込み過ぎて、コブラの様になっていたお嬢。
手乗りを試みる人の掌を、容赦なく前歯の餌食にしていたお嬢。
ケージをかじる音でなかなか眠らせてくれなかったお嬢。
出会って3年と少ししてから、春先に眠るように死んだ。
奇しくも友達の誕生日。
私は寒い日にありがちな擬似冬眠だと思い、何度もドライヤーの熱で起こそうとしたのだが、その目が再び開く事はなかった。
半べそをかきながら、公園の大木の根元にお気に入りの家と一緒に埋めた日の事を今も覚えている。
大事な存在が息を引き取る時に、私はいつも同じように思う。
「もし天国があるのなら、そこで平和に暮らしてほしい」と。
思い出をありがとう。
懐かしい気持ちに浸りながら・・・今日は少しだけ思考停止(゚_゚)
自分なりのまとめ。
普遍的なテーマではあるものの、その解釈は多岐にわたり・・・興味深い。
共通して言える事は「命の喪失」だ。
原則として、失われた命は二度と戻らない。
故に、人の世における命は尊く、同時に死は恐怖の象徴である。
ところで、アポトーシス(Apoptosis)という現象をご存知だろうか。
主に多細胞生物の成長過程に起こる"計画的な細胞の自滅"の仕組みの事で、例えば、木材を削って像を作る際に出る「削りカスを廃棄」するようなものだ。
アポトーシスによって引き起こされる細胞死を、生物学で「プログラム死」と呼ぶ。
これに対し、寿命による細胞死をアポビオーシス(Apobiosis)と言う。
つまり、死とはメカニズムとして備わっている「生物の宿命」だ。
マリニウスの言葉を借りるとすれば、まさに「私達は生まれた途端、死にはじめている」のである・・・皮肉ではなく。
宗教的な意味合いでの死は「現世からの開放」とされ、加えて「死後の世界」という概念が一般的だ。
死後の行き場は、この世での行いに応じて変わるのが通例であるが、定かではない。
私は、死は避けようの無い「終焉」であり、混沌とした「自身の消滅」と考えている。
死の必然に説得性など皆無に等しく、死自体が無作為だ。
現に、人柄や行いに関わらず、残酷に失われた命は幾つあるだろう。
ただ、過去に亡くしたあなたの大事な人は、思い出す事であなたの中に生き、これからもあなたに影響を与え続けるのだと思う。
本当の意味での死とは、「この世から忘れ去られる事」ではないだろうか。
この先どうなろうと、今、ここで生きているという事には意味がある・・・そんな気がしてならない。
今週の初めに大切な人の母が息を引き取った。
私は神にも仏にも他人にも頼らない主義だが、天国というものの存在を願わずにいられない。
何の慰めにもならない願望が、かえって無常な現実を際立たせるものだ。
私は貴女の分も生きて、幸せを目指す。
どうか見守ってほしい。